坂の上の僕

このブログは誰のためでもなく僕自身のためのブログじゃ!!それを坂の上の雲っぽく書く!

坂の上の一歩

誠に小さな大学生が開化期を迎えようとしている

 

この大学生は年始に祖父の家に行きこの祖父とともに散歩をしている。

 

歩きながら「我が祖父はなかなか衰えないな」「元気だなぁ」と思っていると祖父から

 

一歩踏み出す大切さについて教わった。

 

この祖父はやたら武士道に通じており、この大学生が幼い頃は、

「武士なら〜」

「昔の人は〜」

大和魂が〜」

といわれ「今は平成じゃっ」と心の中でツッコミをしていた。なんとバチあたりな大学生であろうか。

話を戻そう。

 

この一歩を踏み出すのは戦いの時に役に立つようだ。

 

相手が攻めてきて、

後ろに引けば、避けるかやられるかの2つ

しかし一歩を踏み出すと相手を倒す事ができるかもしれない。現にこの祖父は若い頃さまざなな武勇伝(相手に襲われて逆に相手を負かしたなど)をこの大学生に聞かせてくれる。

 

この祖父は現に武道が達者でもある。

経験から話されてしまうと納得してしまう。

 

一歩踏み出せばあとは極楽

しかし

一歩下がればあとは地獄

 

このようにも言っていた。

 

なるほど。

 

 

1を2にするのと0を1にするのはどちらが大変か?

 

 

たぶん0〜1が大変だろう。この大学生は1を2にするイメージはできる。しかし後者は別。

 

 

しかし今後求められる能力は0〜1の能力ではないか?

1〜2はほかの人に任せるというのも1つの手である。

一方で0〜1はその人しかないものができる可能性がある。

 

 

0〜1でこの大学生が生み出せるものは何か?

まだわからない。

 

 

わからないからとりあえずこの大学生はパソコンを開き、統計ソフトRの練習をした。ゲーム感覚で面白い。統計の考え方も身につけたい年頃であった。

 

坂の上の統計学

誠に小さな大学生が開化期を迎えようとしていた。

 

この若者は統計学の練習として統計ソフトRの練習をしていた。

 

このRというものがこの大学生にとって昔ハマったゲームににていたから今やっているのかもしれない。

 

 

そうこの大学生は部活動を引退してから1人になる時間が増えた。その増えた分以前は体育学の勉強をしていた。とっても楽しくて理解できた時には頭からアドレナリンが出ているようだった。

 

 

今は「迷い」というか「悩み」この2つがうまく混ぜ合わさった気持ちが混沌としており、行き着いた先が統計ソフトRだった。

なぜRなのか、

 

 

 

12月この大学生は論文の分析方法に苦しんでいた。大好きなスポーツと日頃の学問をどうにか合わせて論文が出来ないかと

 

 

そんな時この大学生の同級生が統計学についてとても丁寧に教えてくれた。

 

 

これによりこの大学生は統計学に興味を持った。

 

そのような経緯であった。

 

 

話が変わり、この大学生はaudible で本を聞いていた

 

「お金の流れでわかる世界の歴史」というものであった

 

 

金は道具である。しかしその道具が国を豊かにしたり、国を滅ぼしたりする。

この金という立場から世界を見ると教科書とは違うがまた別の世界史が見えてくる。

 

昔のユダヤ人がなぜお金に強いのか?

 

このエピソードが一番印象に残っている。

 

生き抜くためにユダヤ人はお金の知識が必要だったと言われると、それだけ大変な思いをしてきたのか。

 

 

消費して貯蓄して投資する

 

しかしそこには見えない知恵が隠されているのかもしれない

 

金は金であるけど、カテゴライズした時やはり道具であろう。

 

 

坂の上の熱

誠に小さな大学生が開化期を迎えようとしている。

 

 

この大学生は今たしかに迷っている。

大学3年の12/30に

 

「単純に就活に行く事ができない」というのが悩みである。

 

この大学生は部活にハマった。

 

競技成績が良いわけではなかったがそれでも部活のなかでは一番競技に熱中していた。

 

さらには大学院にも進学を考えた。

本当に競技が好きだ。

 

スポーツの研究がしたい気持ちはある。

しかし2年間研究してその後就職活動がある。

 

ならば今就活を行い、会社に入り社会でお金を稼いだ方が社会の経験を積むということになる。

 

 

なぜであろう、こんなにも悩むのはなぜか。

この大学生が振られた時以上に悩んでいる。

 

 

悩んでもしょうがなかろう。

 

今までの人生で得たものを書いていこうではないか。

坂の上の学び

誠に小さな大学生が開化期を迎えようとしていた。

 

この大学生は高校から部活にハマってしまった。

高校と同じスポーツを大学でも続けた。

 

さらには小学校5年生から中学校3年まで週1回でそのスポーツを行った。

 

まずこの大学生はスポーツから4つの楽しさを得た

 

1つの事を行う楽しさ

成長する楽しさ

人と繋がる楽しさ

学ぶ楽しさ

 

1つは友達と同じことをやる楽しさであった。

 

これは今までゲームしかしてこなったこのものにとって、とても得たものが大きかった。

ゲーム以外で友達っと呼べるものができたからだ。

 

その友達と同じ高校に行く事にして同じ部活に所属した。

 

そこではその友達よりレベルの高い先輩がたくさんいた。

この大学生は当時この友達を超えて先輩たちに追いつきたいと思った。

必死に練習して人一倍練習してその友達を超える事が出来た。しかし先輩を超える事は出来なかった。

 

だがそこで成長できる楽しさを感じた。

 

大学では人と繋がる楽しさ

そして

 

追い求める楽しさを得たのではないか。

 

大学でも部活を続けた。その友達は専門学校に行ってしまい、一緒にそのスポーツをする事はなくなった。

 

だが、大学では練習を通じて色々な人と関わる事が出来た。これはインドア派のこの大学生にとって今までにない経験だった。

色々な人と練習する事は最初はものすごく緊張するが、今までにない経験ができるのだ。

最初の一歩を踏むの疲れるだけれども、その一歩より二歩目は軽い。だから前に行ける。

 

自分の行動範囲外の人関わるのは勇気がいるし疲れる。だが一旦関われば楽しさがそこにはあるかもしれない。

 

この大学生にとって繋がる楽しさとはそういう事だ。

 

 

学ぶ楽しさ

 

これはこの大学生がスポーツを行うだけでなく、科学的によみとこうとしたためである。

当時競技パフォーマンスが上がらなかった。だから経済学部であってもスポーツ科学の基礎を学んだ。別に科学を知らなくてもスポーツは上手くなる。

この大学生はスポーツ科学を知る上で様々な本を読むようになった。

 

そこから本を読むのは悪くないと思うようになった。

 

本=勉強とは思っていない。

 

だが本を読むようになり大学の授業が楽しくなった。

 

なぜかはわからない。

 

だが知らない事を知るというのは実に楽しい。自分の中の何かが広がるような気がする.....

 

この学んだ4つを活かせる仕事はないだろうか。

 

そういう風に就活をしてみようでないか。

 

そうすれば今より少し心が楽になるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

坂の上の y=f(x)

誠に小さな大学生が開化期を迎えようとしている

 

 

ある先生がこんな事を言った。

 

論文の提出に迫られてる時だった。

「アウトプットをyインプットをxとすると

 

y=f(x)

(y=axの1次関数のようなもの)

 

となる。しかしyは目に見えるがxは目に見えることはできない。yは論文でxは論文の準備にかけた仕事量。僕はみんながどれだけ論文に時間を費やしたか観察する事はできないけど、できた論文は見る事ができるよね。だからいい論文って事はそれだけxが多いって事になるから論文で評価をつける!ハハハハハ」

 

 

この教授は良く笑う。

それは置いておいて、

 

 

y=f(x)

というのは実にシンプルっとこの大学生は思った。

 

しかしこの大学生のfはどれだけなのかっと考えた。0ではない、しかし0に近い値なのではないか。

 

部活でもそうだった。xという練習量を人より増やしてやっと追いつく、というように。

 

一方fの値が1以上であればyは大きくなりやすい。そういうタイプも部活にいた。

 

この大学生は「自分はこのタイプではない」と確信している。

 

 

だから人よりも多くやらないと人並みにはなれない。だからやるという事であろう。

 

坂の上の朝バイト

誠に小さな大学生が開化期を迎えようとしている。

 

この大学生は朝5時に起きてアルバイトに向かった。これを約1年以上続けている。

 

アルバイトに大学生はこの大学生を含め4人ほどしかいない。

 

しかもそんなに作業場所が同じになることもなく、この大学生は年上の人と話す事が多い。

 

 

作業自体は言葉にすると単純だ。スーパーの品出しであるから、

 

「積んであるダンボールから商品を出す、そして並べる」

 

このダンボールを積み上げるのは夜から働いている人が行なっている。

 

 

出勤時間はこの大学生は2時間、ほかの大人は6時間以上働いている。仕事の最後の2時間にこの大学生は出社する。

 

 

 

だからこの大学生はほかのものに比べれば元気だ。

「暗い空気が漂っているわけではないが話しがないのは暗くなる」

もし会話がなければただダンボールから商品を出してそれで終わり。

 

この大学生はバイトの面接の時に

 

「君は仕事中に人と会話できるか?」っとの事を聞かれた。

最初はなにを言ってるかわからなかった。

 

しかし今ではわかるつもりである。

 

「つまらない作業をどう楽しくやるかは人とのコミュニケーションが大事だから君は人と会話する事ができるかどうか」

 

ということであろう。

 

「もちろんこのダンボールから商品を出す」それ自体を楽しむ人もいる。その人は仕事がとても速く叶わない。

 

僕はバイト中なにができているのか?

 

そう考えた時、

 

 

「たった2時間しか職場にはいないけど周りの大人以上にコミュニケーションを人ととっているのではないか」

 

また、このバイトの人たちがいい人たちだからこれができるのかもしれない。

 

仕事中に会話する

 

サボるというわけではなく案外重要な事ではないか。

 

 

 

坂の上のないものねだり

誠に小さな大学生が開化期を迎えようとしている

 

 

この大学生は今商社の本を読んでいた。

 

色々な商社マンが自分のエピソードを語っているいわば

 

業界研究といえるのではないか。

 

 

 

この若者は英語が達者ではない。

 

しかし、商社には英語が必要だった。

そこでこの若者は英語学校を調べた。

 

ないものねだりである。

ないものはない、であるならばあるものはある。 至極真っ当なことである。

 

 

あるもので戦う。それが戦じゃ。

 

またメンタリストのダイゴはないものねだりは良くないっと言っていた。意識ばかりが先に行ってしまい物事への意欲が消えてしまうそうな。

 

 

 

思い返せば、この大学生は意識高い系といえるが、なにかを成し遂げたわけではない。しかし自分の足りないものを埋めようとして大学の時に得たものはスポーツへの知識だった。

 

 

この大学生はスポーツが苦手であった。だが唯一得意なある競技のレベルを上げるため、必死に知識を詰め込んだ。

そして、体育学部の基礎レベルは習得した。

 

 

これが自分の結果に活きたといわれると少し困る。なぜなら、この大学生はもうすでに部活を引退してしまっている。

 

だが後輩への指導の時に感覚でものを言わないように心がけた。

なぜ疲れるのかも説明ができるようになった。

 

 

 

 

感覚というのは口にすると擬音語で終わってしまう。っとこの大学生は考えている。

だからその感覚を理論化して文字に起こし、他者と共有することができればその時に説明できたっということになるのではないか。

 

 

なるほど。得たものはあった。ないものねだりをして行動をした結果今の自分がいる。

 

必死に調べ、人に聞いて、確認する癖がついたのかもしれない。